【あ】
009 蟻通(ありどおし)


社頭を見れば燈火もなく
シテ『瀟湘の夜の雨しきりに降って。遠寺の鐘乃声も聞えず。何となく宮寺ハ。深夜の鐘乃声。御燈の光なんどにこそ。神さび心も澄みわたるに。社頭を見れば燈火もなく。すヾしめの声も聞えず。神ハ宣禰が習はしとこそ申すに。宮守一人もなき事よ。よしよし御燈ハ暗くとも。和光の影ハよも暗からじ。あら無沙汰の宮守どもや』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 四番目(略初能)
(季節) 四月
(稽古順) 一級
(所) 和泉国泉南郡長滝村蟻通神社
(物語・曲趣) 紀貫之玉津島参詣を志し、とあるところまで来ると日が暮れて急に大雨になり、乗馬さえも倒れてしまったので途方に暮れている。

そこへやって来た年老いた宮人が、貫之に対して「そこは物咎めをされる蟻通明神の境内である。それを知って馬を乗り入れたのであれば、あなたの命はありますまい」と言う。貫之が自分の名を告げると、宮人は「それでは和歌を詠んで神慮を慰めなさい」と答えた。

そこで、貫之が「雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしと思ふべきかは」と詠むと、宮人はひどく感心して、二人は和歌のことを語ったり、またその徳を讃えたりする。

その後で、宮人は乞われるままに祝詞をあげたが、「実は自分が蟻通明神である」ことを告げて鳥居の笠木に隠れた。そして、貫之は神楽を奏してから立ち去って行った。

主題は和歌の徳を唱道したものと解されるが、神が出現していながら却って人間味の方が勝っているところに表現の急所がある。

紀貫之=醍醐天皇の御代の歌人。古今和歌集の撰者。御所所領であった。
玉津島=和歌山県和歌浦にある玉津神社を指す。祭神は衣通姫。歌道の神として、住吉神社とともに尊崇された。
蟻通明神=大阪府泉南郡長滝村にある神社。


ノット(祝詞)の中
シテ『謹上再拝。敬って白す神司。八人の八少女。五人の神楽男。雪の袖を返し。白木綿花を捧げつゝ。神慮をすヾしめ奉る。御神託にまかせて。なほも心衷を至さん。ありがたや。そもそも神慮をすヾしむる事。和歌よりも宣しきハなし。その中にも神楽を奏し少女の袖。返すがえすも面しろやな。神の岩戸乃古の袖。思ひ出でられて』

小謡
(上歌)『神の鳥居の二柱。立つ雲透に。見ればかたじけなや。げにも社壇乃ありけるぞ。馬上に折り残す。江北の柳蔭の。糸もて繋ぐ駒。かくとも知らで神前を恐れざるこそ。はかなけれ恐れざるこそはかなけれ』

小謡
(上歌)『されば和歌の言葉ハ。神代よりも始まり。今人倫に普し誰かこれを褒めざらん。中にも貫之ハ。御書所を承りて。いにしへ今までの歌の品を撰みて喜びを延べし君が代の直なる道をあらはせり』

(役別) シテ 宮守、 ワキ 紀貫之、 ワキツレ 従者(二〜三人) 
(所要時間) 三十六分