【か】
025 景清(かげきよ)

景清史跡
所在地:宮崎市下北方

盲目の父と献身的な娘との哀話の舞台となった謡曲「景清」の史跡である。

屋島の合戦で勇猛な戦を見せた景清は源頼朝によって日向の国に流された。その娘・人丸が父を尋ねて行くと父は盲目乞食になっていた…。
境内整備金奉献者芳名碑には、観世元正、武田太加志に交じって我が謡曲会の先輩「湯地武興」の名前も。

景清父子の墓 紀元2600年 景清廟改築之碑
『景清く照らすいき目乃水かしみ末の世までも曇らさりけ里』


寄する波も聞ゆるは
(シテ)『目こそ暗けれど』
(地)『目こそ暗けれども。人の思はく一言の内に知るものを。山ハ松風。すは雪よ見ぬ花の覚むる夢の惜しさよ。さて又浦ハ荒磯に寄する波も聞ゆるハ。夕汐もさすやらん。さすがに我も平家なり。物語始めて御慰みを申さん』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 四番目(略二番目)
(季節) 不定
(稽古順) 九番習
(所) 日向国宮崎市下北方
(物語・曲趣) 平家没落の後、日向国宮崎に流されている悪七兵衛景清を慕って、その娘人丸が従者を連れて鎌倉から宮崎へ下る。娘が宮崎に着いて、ある藁屋に居る盲目の乞食に景清のことを訊ねると、乞食は「知らぬ」と答える。

そこで娘は今度は里人に訊ねたところ、「先の乞食が父である」ということがわかった。里人は、父に会いたがっている人丸を哀れに思い、人丸を連れて来て景清に対面させる。

景清も今は包み隠す理由もなく、「子のためを思って隠そうとした心中」を語り、また「屋島の合戦で武勇を現した思い出」などを語ったりした。その後で、自分が亡き後の回向を頼み、故郷へ娘を帰らせたのである。

勇士の悲惨な末路を描くのが本曲の目的であって、景清の晩年を盲乞食にしたのもそのためであり、はるばる訪ねて来た娘にさえ名乗ることの出来ない哀れな心情を強調して、人情的に脚色している。

日向国宮崎=宮崎県宮崎市。 

小謡
(上歌)『とても世を。背くとならば墨にこそ。背くとならば墨にこそ。染むべき袖の浅ましや窶れ果てたる有様を。我だに憂しと思ふ身を。誰こそありて憐みの憂きを訪ふ由もなし憂きを訪ふ由もなし』

小謡
(上歌)『一門乃船の中。一門乃船の中に肩を並べ膝を組みて。所狭く澄む月の。景清ハ誰よりも御座船になくてかなふまじ。一類その以下武略さまざまに多けれど。名を取楫の舟に乗せ。主従隔てなかりしハ。さも羨まれたりし身の。麒麟も老いぬれば駑馬に劣るが如くなり』

独吟
(地)『日向とハ日に向ふ。日向とハ日に向ふ向ひたる名をば呼び給はで力なく捨てし梓弓。昔に帰る己が名の。悪心ハ起さじと。思へどもまた腹立や』
(シテ)『所に住みながら』
(地)『所に住みながら。御扶持ある方々に。憎まれ申すものならば。偏に盲の杖を失ふに似たるべし。片輪なる身の癖として。腹悪しく由なき言ひ事たゞ容しおはしませ』
(シテ)『目こそ暗けれど』
(地)『目こそ暗けれども。人の思はく一言の内に知るものを。山ハ松風。すは雪よ見ぬ花の覚むる夢の惜しさよ。さて又浦ハ荒磯に寄する波も聞ゆるハ。夕汐もさすやらん。さすがに我も平家なり。物語始めて御慰みを申さん』

(役別) シテ 悪七兵衛景清、 ツレ 人丸(景清娘)、 トモ 人丸ノ従者、 ワキ 里人
(所要時間) 六十分