【か】
029 鐵輪(かなわ)


緑の髪ハ空さまに
上歌『言ふより早く色かはり。言ふより早く色かはり。気色変じて今までハ。美女の容と見えつる。緑の髪ハ空さまに。立つや黒雲の。雨降り風と鳴神も。思ふ仲をば離けられし。恨みの鬼となつて人に思ひ知らせん。憂き人に思ひ知らせん』

(作者) 二百十番謳目録と自家伝抄では世阿弥の作としているが、能本作者註文・歌謡作者考及び異本謳曲作者には作者不明とある。
(曲柄) 四番目
(季節) 九月
(稽古順) 三級
(所) 前、 山城国愛宕郡鞍馬村貴船神社
    後、 京都上京一条葭屋町阿倍晴明邸
(物語・曲趣) 他の女を妻とするために自分を捨てた夫を怨んでいる下京の女が、貴船の宮丑刻詣をしている。

ある夜、そこの社人から「赤い衣を着て顔に丹を塗り、火を燃した鉄輪を頭にいただいて憤怒の心を持つならば、たちまち鬼神になることができるでしょう」と言う神のお告げを伝えられ、その決心をして家に帰る。

この女の前夫は、最近、夢見が悪いので陰陽師晴明を訪ねて占ってもらうと、「女の怨みが深く命も今宵限りであろう」とされたので、驚いて祈祷をしてもらう。

そこへかの女の生霊が鬼型となって現れ、怨みの数々を述べた後、男を連れて行こうとした。

しかし、晴明の懸命な祈祷によって、女の生霊は祭壇に祀られた三十番神に追い立てられて「再び時節を待とう」と捨て科白をして退散するのである。

嫉妬のために女が鬼となるのは他に類曲もあるが、市井的な題材を採った点に本曲の特色がある。人間的感情が深刻に描写されたことにおいては類例の少ない傑作とも言える。

貴船の宮=京都府愛宕郡鞍馬村貴船にある神社で、祭神は水を司る高籠の神である。
丑刻詣=夜丑の刻に神社へ参詣すること。呪詛の願い詣である。
晴明=姓は安倍。一条天皇の頃の天文博士で、陰陽師として著名な人。
三十番神=月の三十日を一日づつ分担して法華経を守護し給う三十の神々。貴船はその第三十番に当たる。


恨めしや御身と契りし
シテ『恨めしや御身と契りしその時ハ。玉椿の八千代。二葉の松乃末かけて。変らじとこそ思ひしに。などしも捨てハ果て給ふらん。あら。恨めしや』

小謡
(上歌)『通ひ馴れたる道の末。通ひ馴れたる道の末。夜も糺乃変らぬハ。思ひに沈む御菩薩池生けるかひなき憂き身の。消えん程とや草深き市原野辺乃露分けて。月遅き夜の鞍馬川。橋を過ぐれば程もなく。貴船の宮に。着きにけり貴船乃宮に着きにけり』

(役別) 前シテ 女、 後シテ 女ノ生霊、 ワキ(後) 安倍晴明、 ワキツレ(後) 男 
(所要時間) 二十七分