【か】
035 咸陽宮(かんにょおきう)


剱を御胸にさし当て奉りけり
地『荊軻ハ期したる事なれば。御衣の袖にむんずと縋って。剱を御胸にさし当て奉りけり』
ツレ『浅ましや聖人人にまみえずとハ。今この時にてありけるぞや。あら浅ましの御事やな』
シテ『いかに荊軻。秦舞陽も確かに聞け。我三千人の妃を持つ。その中に花陽夫人とて琴の上手あり。されば毎日怠る事なし。然れども今日ハ汝が参内に依り。未だ琴の音を聞かず。殊更今ハ最期なれば。片時の暇をくれよ。かの琴の音を聞いて。黄泉の道をも免れうずると思はハ如何に』

(作者) 作者不明。ただし、自家伝抄には世阿弥作とある。 
(曲柄) 四・五番目 (略初能)
(季節) 十月
(稽古順) 一級
(所) 支那陜西省關中道咸陽
(物語・曲趣) 秦の宮殿である咸陽宮は、地上より三里高く周囲には四十里四方の鉄の築弛をめぐらし、宮殿の数は三十六でいずれも荘厳美麗、しかも近づきがたい要害であった。

秦の始皇帝を狙っている燕の国の志士荊軻秦舞陽の二人は、始皇帝が燕国の地図と秦の将軍樊於期の首を天下に求めているのに乗じて、地図の入った箱に七首を隠して参内した。

始皇が二人を引見した際、荊軻は隙を見て始皇を刺そうとする。そのとき、始皇は一策を案じて「花陽夫人の琴を聴く間だけ待ってくれ」と言い、二人はそれを承諾した。

夫人は秘曲を尽くし、刺客がその妙音にうっとりしている隙に始皇帝は身をのがれて、却って刺客の方が殺されるのである。

秘曲の音楽に刺客が心を緩めた機を見て、皇帝は袖を引き切って逃げる。この曲の興味はかかって琴の段にあり、それが全曲の主要部をなしている。

咸陽宮=支那陜西省西安府にあった秦の始皇帝の居城。
燕の国=山東省の北部にあった国。
荊軻=燕の太子丹の客となり、丹のために秦の始皇帝を刺そうとした者。
秦舞陽=燕の国の勇者。
樊於期=はんねき。秦の将軍であったが、罪により燕に逃れたため始皇帝はその一族を誅するとともに、樊於期をも誅することとした。樊於期は荊軻の謀を容れて自殺し、首を荊軻に与えた。
花陽夫人=平家物語のみに見えて、史記には見えない。仮作の名前と見られる。

小謡
(上歌)『登れば玉の階の。登れば玉の階の金銀を磨きて輝けり。ただ日月の影を踏み蒼天を渡る心地して。おのおの肝を消すとかやおのおの肝を消すとかや』

(役別) シテ 秦始皇帝、 ツレ 花陽夫人、 ツレ 侍女(二〜五人)、 ワキ 荊軻、 ワキツレ 秦舞陽、 ワキツレ 大臣、
 ワキツレ 侍臣(二人)
(所要時間) 三十分