【き】
037 砧(きぬた)


ほろほろはらはらはらはらと
シテ『文月七日の暁や』
地『八月九月。げに正に長き夜。千声萬声の憂きを人に知らせばや。月の色風の気色。影に置く霜までも心凄き折節に。砧の音夜嵐悲しみの声虫乃音交りて落つる露涙。ほろほろはらはらはらはらと。いづれ砧の音やらん』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 四番目 (略三番目)
(季節) 九月
(稽古順) 重習 初傳
(所) 筑前国遠賀郡会芦屋町
(物語・曲趣) 訴訟の事で在京三年に及んでいる九州芦屋の某は侍女の夕霧を国に下らせ、「今年の暮れには必ず帰るであろう」と言わせた。

夫の帰りを待ちわびている妻は、夕霧に会うと一層恋慕の情が募り、その気持ちを紛らわそうとして、夕霧と一緒に砧を打ったりする。

ところが、「今年の暮れにも帰れない」という夫からの使いが来たので、妻は夫が心変わりしたものと思い、それがもとで病気になり、ついに夫を怨みながら死んでしまう。

その後、夫は帰国して妻の死を知り、その心を憐れんで梓にかけて妻の霊を引き寄せる。

すると、やがて妻の亡霊が現れて「生前の亡執ゆえに地獄の責めに苦しんでいる」ことを訴え、夫の不実を怨んだりしたが、法華経読誦の功力によって成仏するのである。

主題は、恋慕の執心を取り扱ったものである。

九州芦屋=福岡県遠賀郡芦屋町。


思ひ知らずや
シテ『烏てふ。おほをそ鳥も心して』
地『うつし人とハ誰か言ふ。草木も時を知り。鳥獣も心あるや。げにまこと例へつる。蘇武ハ旅雁に文を附け。萬里の南国に到りしも。契りの深き志。浅からざりし故ぞかし。君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや』

(下歌)『夏衣薄き契りハ忌まはしや。君が命ハ長き夜の。月にハとても寝られぬにいざいざ。衣擣たうよ。かの七夕の契りにハ。一夜ばかりの狩衣。天の川波立ち隔て。逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露涙。二つの袖や萎るらん。水陰草ならば。波うち寄せよ泡沫』

(役別) 前シテ 芦屋某ノ北方、 後シテ 北方ノ亡霊、 ツレ 夕霧、 前ワキ 芦屋某、 後ツレ 前同人
(所要時間) 六十分