【き】
038 清経(きよつね)


さては佛神三宝も
地『さりともと。思ふこゝろも。虫の音も。弱り果てぬる。秋の暮れかな』
シテ『さては。佛神三宝も』
地『捨て果て給ふと心細くて。一門ハ。気を失ひ力を落として足弱車のすごすごと。還幸なし奉る哀れなりし有様』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 二番目 修羅物
(季節) 九月
(稽古順) 三級
(所) 京都
(物語・曲趣) 平清経の家臣淡津三郎は、清経が平家の前途に失望して豊前国の柳が浦の沖で入水したので、形見の鬢髪を持って都に帰り、清経の妻にそれを渡す。

妻は夫が入水したことを聞き、自殺した夫の心を怨み、悲嘆の種となる形見の黒髪を手向け返して、涙ながらにまどろんでいる。

すると、枕許に清経の亡霊が現れて、形見を返したことを咎める。妻の方でも、夫が自ら命を捨てたことを怨み、互いに不幸せな身の上を嘆いた。

やがて、清経は滅亡の一途を辿って行った平家一門の運命と、自分が入水して死んだときのことを物語り、「死後に落ちて行った修羅道の有様」を見せたが、「真実は入水の際に最後の十念を唱えた功力で佛果を得たのである」と語って消え失せて行った。

全体として、幽玄味の勝ったものだけに、表現にはその用意が必要である。

平清経=左近衛中将平清経。平重盛の第三男である。
柳が浦=大分県宇佐郡柳が浦村。
十念=念仏を十度唱えること。


乱るゝ敵
地『さて修羅道に。をちこちの。たづきハ敵。雨ハ箭先。土ハ精剱山ハ鉄城。雲の旗手を衝いて。驕慢の。剱を揃へ。邪見の眼乃光。愛欲貧恚痴通玄道場。無明も法性も。乱るゝ敵。打つハ波。引くハ潮。西海四海乃因果を見せて。これまでなりや。真ハ最期の十念乱れぬ御法の船に。頼みしまゝに。疑ひもなくげにも心ハ清経がげにも心ハ。清経が佛果を得しこそありがたけれ』

小謡
(上歌)『この程ハ。人目を?む我が宿の。人目を?む我が宿の。垣ほの薄吹く風の。声をも立てず忍び音に泣くのみなりし身なれども。今ハ誰をか憚りの。有明月の夜たゞとも。何か忍ばん郭公名をも隠さで泣く音かなをも隠さで泣く音かな』

小謡
(下歌)『手向け返して夜もすがら。涙と共に思ひ寝の。夢になりとも見え給えと。寝られぬに傾くる枕や恋を知らすらん枕や恋を知らすらん』

小謡
(上歌)『怨みをさへに言ひ添へて。怨みをさへに言ひ添へて。くねる涙乃手枕を。ならべて二人が逢ふ夜なれど怨むれば獨寝の。ふしぶしなるぞ悲しき。げにや形見こそ。なかなか憂けれこれなくハ。忘るゝ事もありなんと思ふも濡らす袂かな思ふも濡らす袂かな』

(役別) シテ 平清経、 ツレ 清経ノ妻、 ワキ 淡津三郎
(所要時間) 四十五分