【く】
043 花月(くゎげつ)


小歌の中
シテ『来し方より』
地『今の世までも絶えせぬものハ。恋と云へる曲者。げに恋ハ曲者。くせものかな。身ハさらさらさら。さらさらさらに。恋こそ寝られね』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 四番目 (略二番目)
(季節) 二月
(稽古順) 三級
(所) 京都洛東清水寺
(物語・曲趣) 筑紫彦山の麓で暮らしていた左衛門という者が、一緒に暮らしていたある男の子が7歳のときに行方不明になったので、出家して諸国を行脚する。

ある年の春の頃、左衛門は上洛して清水寺に詣でる。すると、花月と名乗る喝食が来て、小歌を謡ったり、花踏み散らす鶯を討ち落とそうとしたり、またこの寺の縁起を曲舞にして舞い謡ったりする。

それを見た僧は、この少年が行方不明になった我が子であることに気づき、自分が親であることを告げる。

花月は喜んで、七歳の時に天狗にとらわれてからの次第を物語り、その後で、親子一緒に修行の旅に出かけるのである。

喝食を主人公とすることによって、小歌その他の雑芸を見せようとしたものであろう。

また、風物に清水の桜を取り入れたりしたのは、曲に明るさを求めたためであろう。常套的な親子再会の喜びも、この明るさのためには効果的となっている。

筑紫彦山=豊前、豊後、筑前の三国にまたがる高山で、修験道彦山派の本山である。
喝食=本来は、禅寺の食卓に侍して、諸般の命令を大声で伝達する役目の少年であって、禅学修業の候補生のような者を指す。身分は禅門の修行者で、中には既に居士となっている者もいる。禅門では「カッジキ」、能では「カッシキ」と呼ぶ。能の喝食は、少し異なってもっぱら遊狂の青年あるいは少年ということになっている。
曲舞=鎌倉時代末頃から室町時代にかけて流行した歌舞の名。


さらさらさらさらと摺っては
仕舞
地『とられて行きし山々を。思ひやるこそ悲しけれ。かづ筑紫にハ彦の山。深き思ひを四王寺。讃岐にハ松山降り積む雪の白峯。さて伯耆にハ大山さて伯耆にハ大山。丹後丹波の境なる鬼が城と聞きしハ天狗よりも恐ろしや。さて京近き山々さて京近き山々。愛宕の山の太郎坊。比良乃ゝ峯の次郎坊。名高き比叡の大嶽に。少し心乃澄みしこそ。月の横川乃流れなれ。日頃ハ外にのみ。見てや止みなんと眺めしに。葛城や。高間の山。山上大峯釈迦の嶽。富士の高嶺に上がりつヽ。雲に起き臥す時もあり。かやうに狂ひ廻りて。心乱るゝこの簓。さらさらさらさらと摺ってハ謡ひ舞うてハ数へ。山々峯々里々を廻り廻りてあの僧に。逢ひ奉る嬉しさよ。今よりこの簓。さつと捨てゝさ候はゞ。あれなる御僧に。連れ参らせて佛道連れ参らせて佛道乃修行に出づるぞ嬉しかりける出づるぞ嬉しかりける』

小謡
(小歌)
シテ『来し方より』
地『今の世までも絶えせぬものハ。恋と云へる曲者。げに恋ハ曲者。くせものかな。身ハさらさらさら。さらさらさらに。恋こそ寝られね』

名ノリ
シテ『そもそもこれハ花月と申す者なり。或人我が名を尋ねしに答へて曰く。月ハ常にして言ふに及ばず。さてくわの字ハと問へば。春ハ花夏ハ瓜。秋ハ菓冬ハ火。因果の果をば末期まで。一句乃為に残すと言へば。人これを聞いて』
地『さてハ末世乃高祖なりとて天下に隠れもなき花月を我を申すなり』

(役別) シテ 花月、 ワキ 旅僧
(所要時間) 二十八分