【け】
044 源氏供養(げんじくよお)


雲も其方か夕日影
シテ『恥かしや。色に出づるか紫乃』
地『色に出づるか紫乃。雲も其方か夕日影さしてそれとも名のり得ずかき消すやうに失せにけり消すやうに失せにけり』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 三番目 鬘物
(季節) 三月
(稽古順) 一級
(所) 近江国石山寺
(物語・曲趣) 安居院の法印が石山参詣に出かけその近くまで来ると、ひとりの女が現れて法印を呼び止め、「昔、石山寺にこもって源氏物語を書いたが、源氏の供養をしなかったために成仏が出来ずにいるので、どうか源氏の供養をして我が跡を弔ってください」と頼む。

これに対して、法印が「あなたは紫式部ですか」と訊ねると、女はそれとなくうなずいて消え失せた。法印が石山で供養をしていると、紫式部の霊が現れて「報謝のために」と、紫の薄衣を翻して舞を舞い、その中で「人の世の無常」を説く。

これを見た法師は、「さてこそ紫式部は石山観音の化現であり、また源氏物語を書いたのは夢のこの世を人に知らせる方便であったか」と悟るのである。

源氏物語中の人物でなく、作者そのものを主人公(シテ)としている点に特色がある。紫式部は石山寺にこもって「源氏物語」を書いたのだが、それを仏教の一つの教義から解釈すると、狂言綺語を弄して世を偽ったために、作者は成仏が出来ないということになる。成仏ができるためには、主人公の光源氏のために供養をしなければならぬ、と紫式部の霊は悩んでいたのである。

したがって、この曲の主題は「源氏物語」の情緒を仏教の無常観によって表現しようとするところにある。

安居院の法印=藤原信西入道の孫に当たる聖覚法印。安居院は叡山竹林院の里坊で、京都大宮通寺の中にあった。


藤の裏葉に置く露の
シテ『花散る里に住むとても』
地『愛別離苦の理免れ難き道とかや。だゞすべからくハ。生死流浪乃須磨乃浦を出でゝ。四智園明の。明石の浦に澪標。何時までもありなん。だゞ蓬生の宿ながら。菩提乃道を願ふべし。松風の吹くとても。ごう業障の薄雲ハ。晴るゝ事更になし。秋乃風消えずして。紫磨忍辱の藤袴。上品蓮台に。心を懸けて誠ある。七宝荘厳の。真木柱乃もとに行かん。梅が枝乃。匂ひに移る我が心。藤の裏葉に置く露乃。その玉鬘かけ暫し朝顔の光頼まれず』

小謡
(上歌)『寝もせで明すこの夜半の。月も心せよ。石山寺乃鐘の声。夢をも誘ふ風の前。消えしハそれか燈火乃光源氏の跡弔はん光源氏の跡弔はん』

(役別) 前シテ 里女、 後シテ 紫式部、 ワキ 安居院法院、 ワキツレ 従僧(二〜三人)
(所要時間) 四十四分