【せ】
065 攝待(せったい)


ワキ 語の中
語『さても屋島の合戦。今ハ斯うよと見えしに。門脇殿の二男能登の守教経と名のって。小船に取り乗り磯間近く漕ぎ寄せ。いかに源氏の大将源九郎義経に。矢一筋まゐらせん受けて見給へとのゝしる。かう申す各々を始めとして。皆御矢面に立たんとせしが。何とやらん心怯れたりし処に。継信ハ心勝りの剛の人にて。お馬の前に駈け塞がって。義経これに在りやとてにつこと笑ひて控へたり。さてその時に教経ハ。引き設けたる弓なれば。矢坪を指してひやうと放つ。あやまたず継信が著たりける。鎧の胸板押附揚巻。かけずたまらずつゝと射通し。後に控へ給ふ我が君の。御著背長の草摺にはつたと射留む。さてその時に継信ハ。馬の上にて乗り直らん乗り直らんとせしかども。大事の手なればこらへずして。馬より下にどうと落つ。やがて我が君お馬を寄せ。継信を陣の後に舁かせ。いかに継信。いかにいかにと宣へども。たんだ弱りに弱って終に空しくなる。なんぼう面目もなき物語にて』 

(作者) 能本作者註文・歌謡作者考・異本謳曲作者は作者不明とし、二百十番謳目録・自家伝抄は宮増作としている。
(曲柄) 四番目(略三番目)
(季節) 三月
(稽古順) 準九番習
(所) 岩代国信夫郡平野村佐場野
(物語・曲趣) 義経主従十二人は作り山伏となって奥州へ落ちたが、佐藤の館山伏摂待があることを知り、何知らぬ風でそこへ立ち寄った。

継信の遺子である鶴若と継信・忠信の母である老尼は、彼らが義経主従であることを覚って歓迎した。

老尼はふたりの子を失った嘆きを洩らし、「せめてわが君を教えて私を喜ばせてください」と頼んだ後、鶴若とともに義経その他の人々の名を指し当てた。

そこで、義経主従はついに隠し切れなくなって真実の事を告げ、「継信が弁慶の屋島において忠死したことや弟の忠信が兄の敵を討った事」などを老尼に語って聞かせた。

話を聞いて老尼は嘆きの中にも喜んで酒を勧め、鶴若もかいがいしく酌をした。

ほどなくして夜が明け、義経主従が出かけようとすると、鶴若は「供をさせてくれ」とせがむ。それをすかし、なだめて涙ながらに別れて行くのを、老尼は鶴若を抱いて見送るのである。

佐藤兄弟の忠烈を主題にした曲であるが、それを弁慶に物語らせ、その母を主人公にして悲嘆の中にも取り乱さない勇士の母の心情を描いたものである。

佐藤の館=佐藤継信・忠信等の館で、岩代国平野村佐場野にその遺跡と伝えられる所がある。
山伏摂待=特に山伏修行の者を接待し饗応すること。摂待は接待と同意。
継信=佐藤荘司元治の嫡子で弟忠信と共に義経に従って転戦し、屋島の戦において戦死した
鶴若=佐藤継信の幼児。
忠信=継信の弟。文治元年義経の吉野落ちの際には、主君の身代わりとなって戦った。

小謡
(上歌)『親子よりも主従ハ。親子よりも主従ハ。深き契りの仲なれば。さこそ我が君も。哀れと思し召すらめ。殊さら御為に。命を捨てし郎等乃。一人ハ母一人ハ子なり。などや弔ひの。御言葉をも出されぬ。かほど数ならぬ。身にハ思ひのなかれかし。あら恨めしの浮世やあら恨めしの浮世や』

小謡
(上歌)『武士も。物のあはれハ知るものを。などされば余りに御心強くましますぞ。明かさせ給へ人々と外目も知らず泣き居たり人目も知らず泣き居たり』

小謡
(上歌)『父賜べなうとて走り寄れば。岩木をむすばぬ義経なれば泣く泣く膝に抱き取る。げにや栴檀ハ。二葉よりこそ匂ふなれ。真に継信が子なりけりと。外の見る目までみな涙をぞ流しける』

(役別) シテ 老尼、 ツレ 源義経、 ツレ 義経ノ郎党(十人)、 子方 鶴若、 ワキ 武蔵坊弁慶
(所要時間) 六十七分