【せ】
066 蝉丸(せみまる)


さて我をばこの山に捨て置くべきか
ツレ『いかに清貫』
ワキ『御前に候』
ツレ『さて我をばこの山に捨て置くべきか』
ワキ『さん候宣旨にて候程に。これまでハ御供申して候へども。何処に捨て置き申すべきやらん。さるにても我が君ハ。尭舜よりこの方。国を治め民を憐む御事なるに。かやうの叡慮ハ何と申したる御事やらん。かゝる思ひも寄らぬことハ候はじ』

(作者) 二百十番謳目録・能本作者註文・異本謳曲作者ではいずれも世阿弥元清の作としている。ただし作者註文及び謳曲作者には別作という旨の註記あり、歌謡作者考にも「世阿弥作共云」とある。 
(曲柄) 四番目 (略三番目)
(季節) 八月
(稽古順) 二級
(所) 近江・山城国境逢坂山
(物語・曲趣) 罪障消滅のための叡慮とはいいながら、生来の盲目である皇子を都から離れた逢坂山に捨てるということは、なんという悲惨な事であろう。そこへ姉宮が狂女となって逢いに行かれる。

不具な姉弟のめぐり合い、しかも何ら明るい将来の希望もなく、彼らはそのまま空しく別れるのである。だから、たとえその間に濃やかな同胞愛を推し量るべきものがあるにしても、この曲は徹頭徹尾悲痛極まりない悲劇である。

盲目となって逢坂山に棄てられた弟宮を求めて、逆髪で発作的に狂乱する姉宮が訪ねて行き、互いに宿命を嘆いて別れる、という題材である。
曲の狙いどころは仏教の因果応報思想であって、皇子・皇女という高貴な身でも、この理法を免れ得ない運命にあることを上品に説いたものである。

また、本曲は題材に何ら史実の根拠がないのに、皇子を盲人、皇女を狂女としているところから、第二次世界大戦中の国家主義、天皇神格化思想の影響のもとに上演中止となっていたが、終戦後再び従前どおり上演されることになっている。。

逢坂山=山城・近江の境にある山。
逆髪=仮作の人物である。


弟の宮か姉宮かと
シテ『さも浅ましき御有様』
ツレ『互に手に手を取りかはし』
シテ『弟の宮か』
ツレ『姉宮かと』
地『共に御名を木綿附の。鳥も音を鳴く逢坂乃。堰きあへぬ御涙。互ひに袖や萎るらん』

小謡
(上歌)『かゝる憂き世に逢坂の。知るも知らぬもこれ見よや。延喜の皇子の成り行く果てぞ悲しき。行人征馬の数々。上り下りの旅衣。袖をしをりて村雨の振り捨て難き。名残かな振り捨て難き名残かな』

(役別) シテ 逆髪、 ツレ 蝉丸、 ワキ 清貫、 ワキツレ(二人) 輿舁
(所要時間) 五十八分