【せ】
067 千手(せんじゅ)


合はせて開けば
地『その時重衡興に乗じ。琵琶を引き寄せ弾じ給へばまた玉琴の。諸合はせに』
シテ『合はせて開けば』
地『峯の松風通ひ来にけり。琴を枕の短夜の仮寝。夢も程なく。東雲もほのぼのと。明け渡る空の』
シテ『あさまにやなりぬべき』
地『あさまにやなりなんと。酒宴を止め給ふ御心の中ぞ傷はしき』

(作者) 能本作者註文には千手重衡を金春禅作の作とし、別に観世弥次郎作の千手を挙げている。世阿弥の作を禅竹が改作したものではないかという説もある。
(曲柄) 三番目 鬘物
(季節) 三月
(稽古順) 二級
(所) 相模国鎌倉郡鎌倉
(物語・曲趣) 一の谷の合戦で生け捕られた平重衡は、鎌倉に送られて狩野介宗茂の預かりとなっていた。源頼朝は重衡に同情して、これを慰めるために手越の長の女、千手を遣わした。

ある雨の日、宗茂が重衡に酒を勧めようと思っているところへ、千手が琵琶と琴を携えて訪ねて来る。

重衡は千手の取次ぎで頼朝に出家の望みを願い出ていたが、それが許されなかったことを聞き、これも父の命令で仏像を焼き人命を断った報いであろうと嘆く。

千手は重衡を慰めて酒を勧め、謡ったり舞ったりすると、重衡もいつしか興に乗って琵琶を弾こうとするので、千手もまたそれに琴を合わせたりする。

そのうちに、短い夜が明け始め、重衡は酒宴を止めたが、やがて勅命によって都に送られることになったので、千手は泣きながらこれを見送る。
主題は、哀れな貴公子の憂愁が愛人の同情によっていかに刹那の光明に照らされるか、またその光明はすぐ後に続く暗黒に吸い込まれるものであるかを示すところにあると見られる。全曲を通じて、女心の優しさを表現することに細心の注意が払われている。

手越の長=手越は駿河国安倍郡にある宿駅。長は宿駅の長者の意であるが、多くの遊女を置く宿舎の女主をいう。

小謡
(上歌)『妻戸をきりゝと押し開く。御簾の追風匂ひ来る。花の都人に。恥かしながら見みえん。げにや東乃果しまで。人の心乃奥深き。その情こそ都なれ。花の春紅葉乃秋。誰が思ひ出となりぬらん』

小謡
(上歌)『思へたゞ。世ハ空蝉乃唐衣。世ハ空蝉の唐衣。著つゝ馴れにし妻しある。都の雲居を立ち離れ。はるばる来ぬる。旅をしぞ思ふ衰への。憂き身の果ぞ悲しき。水行く川の八橋や。蜘蛛手に物を思へとハ。かけぬ情のなかなかに馴るゝや怨みなるらん馴るゝや怨みなるらん』

(役別) シテ 千手前、 ツレ 平重衡、 ワキ 狩野介宗茂
(所要時間) 四十九分