【と】
089 朝長(ともなが)


荻の焼原の跡までも
シテ『弔ふ我も』
ワキ『朝長も』
地『死の縁乃。所も逢ひに青墓乃。所も逢ひに青墓乃。跡乃標か草の蔭の。青野が原ハ名のみして古葉のみ乃春草ハ。さながら秋の浅茅原。荻の焼原乃跡までも。げに北?の夕煙一片の。雲となり消えし空ハ色も形も亡き跡ぞ哀れなりける亡き跡ぞ哀れなりける』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 二番目 修羅物
(季節) 一月
(稽古順) 一級
(所) 美濃国不破郡青墓村
(物語・曲趣) かつて源朝長の御守役であった嵯峨清涼寺の僧が、平治の乱に敗れて美濃の青墓で自害した朝長を弔おうと思い、青墓の宿に下ってそこの墓所に詣でる。

すると、この宿の長者も詣でに来たので互いに名乗りあう。長者は、自分の家で朝長が自害したときの模様を語った後、僧を自分の家に連れて行き、懇ろにもてなす。

その夜、僧が観音懺法を行って弔うと、朝長の亡霊が現れてきて、平治の乱後に殺されたり生け捕られた父や兄達のことを語る。朝長の亡霊は、さらに「長田は主君であるわが父義朝を闇討ちにしたのに、この宿の長は女ながらもかいがいしくわが死後までの世話をしてくれるのはうれしいことだ」と喜び、深手を負って自害するに至るまでの有様を語り、回向を乞い消え失せる。

清涼寺=俗に釈迦堂という。本尊は釈迦像。
青墓=岐阜県不破郡の垂井と赤坂との間にあった往時の宿駅の名称。
長者=宿駅の長。転じて、宿駅の女主や遊女をも称する。
観音懺法=天台宗等で勤行する法要修行のひとつで、支那から渡来した観世音懺悔法である。功徳甚大の法という。
長田=名は忠致。鎌田の妻の父。


膝の口をの深に射させて
地『源平両家』
シテ『入り乱るヽ』
地『旗ハ白雲紅葉の。散り交り戦うふに。運の。極めの悲しさハ。大崩にて朝長が。膝乃口を。のぶかに射させて馬の。太腹に。射つけらるれば馬ハ頻りに跳ね上がれば。鐙を越して。下り立たんと。すれども難儀の手なれば。一足も。引かれざりしを。乗り替に。舁き乗せられて。憂き近江路を。凌ぎ来てこの青墓に下りしが。雑兵の手に。かヽらんよりハと思ひ定めて腹一文字に。かき切って。そのまヽに。修羅道にをちこちの。土となりぬる青野が原の。亡き跡弔ひて賜び給へ亡き跡を弔ひて賜び給へ』

小謡
(上歌)『雪の内。春ハ来にけり鶯の。春ハ来にけり鶯の。凍れる涙今ハはや。解けても寝ざれば夢にだに御面影の見えもせで。傷はしかりし有様を思ひ出づるも。浅ましや思ひ出づるも浅ましや』

小謡
(上歌)『死の縁乃。所も逢ひに青墓乃。所も逢ひに青墓乃。跡乃標か草の蔭の。青野が原ハ名のみして古葉のみ乃春草ハ。さながら秋の浅茅原。荻の焼原乃跡までも。げに北?の夕煙一片の。雲となり消えし空ハ色も形も亡き跡ぞ哀れなりける亡き跡ぞ哀れなりける』

小謡
(上歌)『悲しきかなや。形を求むれば。苔底が朽骨身ゆるもの今ハ更になし。さてその声を尋ぬれば。草径が亡骨となって答ふるものも更になし。三世十方の。仏陀の聖衆も憐む心あるならば。亡魂幽霊もさあこそ嬉しと思ふべき』

小謡
(上歌)『あれハとも。言はゞ形や消えなまし。言はゞ形や消えなまし。消えずハいかで灯火を。背くなよ朝長を共に憐れみて。深夜の。月も影添ひて光陰を惜しみ給へや。げにや時人を。待たぬ浮世の習ひなり。たゞ何事もうち捨てヽ。御法を説かせ給へや御法を説かせ給へや』

(役別) 前シテ 青墓の長者、 後シテ 大夫乃進朝長、 ツレ(前) 侍女、 トモ(前) 従者(太刀持)、ワキ 旅僧、 ワキツレ 従僧(二〜三人)
(所要時間) 五十六分