【な】
090 仲光(なかみつ)


仲光が袂にすがりつゝ
美女『美女ハ余りの悲しさに。仲光が袂にすがりつゝ。たとひ幸壽を失ふとも。共に及ぶべしと。泣き悲しみて制すれば』

(作者) 能本作者註文には世阿弥の作として「金春大夫に遣之」と註記。歌謡作者考及び異本謳曲作者には世阿弥の作、但し金剛大夫直之と註記しているが、自家伝抄では宮増某の作となっている。
(曲柄) 四番目(略二番目)
(季節) 不定
(稽古順) 一級
(所) 摂津国河辺郡多田村多田院
(物語・曲趣) 多田満仲は子美女丸を寺に上らせて学問をさせようとしたのに、「武芸のみで学問に不熱心である」という噂を聞き、家臣藤原仲光に命じて連れ帰らせ、経を読ませると、果たして少しも読めないので、怒って手打ちにしようとする。

仲光がそれを止めると、満仲は仲光に討てと命ずる。仲光が困っていると、その子の幸寿丸が身代わりに立つことを願い、美女丸も進んで討たれようと言う。仲光は恩愛のふたつの道に迷ったが、ついにわが子を打って美女丸を逃がして、満仲にそのことを報告する。満仲もさすがにその死を憐れんで法要する。

そこへ叡山の恵心僧都が美女丸を連れて来て、仲光の苦哀を語って美女丸の赦免を乞うと、満仲もついに承諾する。

仲光は喜んで酒宴の舞を舞ったが、再び僧都に伴われて行く美女丸の姿をわが子のことを忍びながら悄然と見送る。

主題としては、忠義の心から主君の子の身代わりにわが子を殺した家人の心事を取り扱ったもので、悲壮に満ちている。

多田満仲=源満仲。清和天皇の尊孫で経基王の子。摂津国多田に居住していたので多田の満仲ともいう。
藤原仲光=謡曲作者の仮作した人名。
幸寿=仲満の子。
恵心僧都=源信。比叡山横川の恵心院にいたので、恵心僧都と呼ばれた。


外目は舞の手
地『思ひハ涙。外目ハ舞の手。交るハ袖の。上露も下露も。後れ先だつ浮世乃習ひ。昨日ハ嘆き。今日ハ喜びの都に帰る。これまでなりと。恵心乃僧都ハ美女を伴ひ帰りければ。仲光も遥かに脇輿に来り。この度乃御不審人為にあらず。かまへて手習学問ねんごろにおはしませと。御暇申して帰りけるが。無慙や幸壽が御供ならばと暫しハお輿を見送り申し。暫しハお輿を見送り申してうちしをれてぞ留まりける』

小謡
(上歌)『こハ誰が為なれば。父がさしもに言ひし事に跡をつけぬ庭の雪。人に見せんもなにがしが。子と言ふかひもなかるべしとて。御佩刀を取り給へば。走り出づるや仲光が。中にてとかく御袖に。取りつきしがり申すしつゝ。あやふき美女御前の。御身乃程ぞ傷はしき』

小謡
(上歌)『報いハ人の科ならじ。たゞみづからが作す所を。おろかにや恨みある。憂き世の中と思ふらん。たがひに憂き事を。語り語れば時うつる。はや首とれや仲光と。言の葉も涙もすゝむこそ悲しかりけれ』

獨吟
地『思ひハ涙。外目ハ舞の手。交るハ袖の。上露も下露も。後れ先だつ浮世乃習ひ。昨日ハ嘆き。今日ハ喜びの都に帰る。これまでなりと。恵心乃僧都ハ美女を伴ひ帰りければ。仲光も遥かに脇輿に来り。この度乃御不審人為にあらず。かまへて手習学問ねんごろにおはしませと。御暇申して帰りけるが。無慙や幸壽が御供ならばと暫しハお輿を見送り申し。暫しハお輿を見送り申してうちしをれてぞ留まりける』

(役別) シテ 藤原仲光、 ツレ 多田満仲、 子方 美女丸、 子方 幸寿、 ワキ 恵心僧都
(所要時間) 四十三分