【は】
095 羽衣(はごろも)


シテ 呼掛
シテ『なうそ乃衣は此方乃にて候。何しに召され候ぞ』
ワキ『これハ拾ひたる衣にて候に取りて帰り候よ』
シテ『それハ天人の羽衣とて。たやすく人間に与ふべき物にあらず。もと乃如くに置き給へ』
ワキ『そもこ乃衣の御主とハ。さてハ天人にてましますかや。さもあらば末世の奇特に留め置き。国の宝となすべきなり。衣を返す事あるまじ』
シテ『悲しやな羽衣なくてハ飛行乃道も絶え。天上に帰らん事も叶ふまじ。さりとては返し賜び給へ』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 三番目
(季節) 三月
(稽古順) 四級
(所) 駿河国三保松原
(物語・曲趣) 白龍たちの漁夫が釣に出かけると、長閑な春の海を控えた三保の松原のとある松に美しい衣が懸かっているので、白龍はこれを取って帰ろうとする。

そこへ天人が現れて「それは私の羽衣だから返してください」と言う。白龍が断ると、天人は「それがないと天に帰れないのです」と嘆き、空を懐かしげに見上げる。

その哀れな様子に心を打たれた白龍が、天人の舞楽を見せてもらうことを条件にして衣を返す。

すると天人は喜んで、月界における天人生活の面白さを語り、「この松原の春の景色はその天界にも勝る面白さです」と褒めながら舞を舞い、それが伝わって東遊の駿河舞となった。

天人はしばらく袖を翻して舞っていたが、やがて富士の山よりも高く、かすんだ空の彼方へと消え失せて行った。

長閑な春の海に青々とした松原が浮かび、遠景には富士山が見える。そういう情景の中で、美しい天人が舞いながら昇天する。まさに一幅の絵である。

また人間界には偽りが行われているが、天人は信義を本とする、ということなども見えてくる。

女主人公が天人であり、月宮殿の舞楽の叙述から東遊駿河舞のことにかけて、どこまでも遊楽遊舞の戯れに終始しているのは注意すべきである。

三保の松原=静岡県安部郡三保浦の海上に突出した須崎の松原。名勝の地。
東遊の駿河舞=東遊は神事等に奏する古代舞曲で、東国の風俗歌にあわせて舞うところから起こり、駿河舞・求子・大比禮等がある。駿河舞は、駿河有度濱に天人が天下って舞った曲を、所の者がまねび伝えたものであるという伝説がある。


浦風に靉き靉く
獨吟 仕舞
地『東遊の数々に。東遊乃数々に。その名も月乃。色人ハ。三五夜中の。空に又。満願真如乃影となり。御圓満国土成就。七宝充満乃宝を降らし。国土にこれを。施し給ふさる程に。時移つて。天の羽衣。浦風に靉き靉く。三保の松原浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。かすかになりて。天の御空の。霞に紛れて。失せにけり』

小謡
(上歌)『迦陵頻迦乃馴れ馴れし。迦陵頻迦乃馴れ馴れし。声今更に僅かなる。雁がねの帰り行く。天路を聞けば懐かしや。千鳥鴎乃つ波。行くか帰るか春風の乃空に吹くまで懐かしや空に吹くまで懐かしや』

仕舞
クセ 地『春霞。靉きにけり久方の。月乃桂乃花や咲く。げに花鬘色めくハ春のしるしかや。面白や天ならで。こゝも妙なり天つ風。雲の通路吹き閉ぢよ。少女乃姿。暫し留まりて。こ乃松原の。春乃色を三保が崎。月清見潟富士乃雪いづれや春乃曙。類ひ波も松風も長閑なる浦乃有様。その上天地ハ。何を隔てん玉垣乃。内外の神乃御裔にて。月も曇らぬ日の本や』
シテ『君が代ハ。天乃羽衣稀に来て』
地『撫づとも尽きぬ巌ぞと。聞くも妙なり東歌。声添へて数々乃。笙笛琴箜篌孤雲乃外に充ち満ちて。落日乃くれなゐハ蘇命路乃山をうつして。緑ハ波に浮島が。払ふ嵐に花降りて。げに雪を廻らす白雲乃袖ぞ妙なる』

(役別) シテ 天人、 ワキ 漁夫白龍、 ワキツレ 漁夫(二人)
(所要時間) 三十五分