【は】
098 芭蕉(ばしょお)


シテ サシ
『風破窓を射て燈火消え易く。月疎屋を穿ちて夢なり難き。秋乃夜すがら所から。物凄しき山陰に。住むとも誰か白露の。ふり行く末ぞ哀れなる』

(作者) 金春禅竹。自家伝抄には禅竹の作としてあり、「観世叉三郎所望」の註記が加えられている。
(曲柄) 三番目
(季節) 八月
(稽古順) 一級
(所) 支那湖西省湘水付近
(物語・曲趣) 唐土楚国の湘水というところに山居の僧が毎夜読経をしていると、ひとりの女がそっと聴きに来る様子なので、ある夜、僧は女にその素性を尋ねる。

すると、女は「私はこの辺りの者で仏縁を結びたいと思って来るのですから、どうか内へ入れて御法を聴聞させてください」と言う。

その志に感じて僧は庵の中に入れて、薬草喩品を読んで聞かせる。

それに対して、女は草木さえも成仏できる法華経の功力をたたえ、その後、自分が芭蕉の精であることをほのめかして消え失せた。

その後もなお僧は夜もすがら読経をしていると、芭蕉の精が再び女の姿で現れる。そして非情の草木も無相真如の體であることや、芭蕉葉が人生のはかなさを示していることなどを語り、舞を舞った。

秋風が吹きすさむとその姿は消えて、庭の芭蕉の葉だけが破れて残っていた。

主題は、『法華経』の功徳によって非情の草木までも成仏するということを芭蕉に当てはめたもので、女主人公は芭蕉の人格化された女である。この世の人間くさい色香を洗い落とした清冷高雅な情緒を表現するところが、狙い所ではないかと思われる。

薬草喩品(やくそうゆほん)=法華経の第五巻。
無相真如の體(むそうしんにょのたい)=形相を超えて存在する絶対の真理をいう。


袖のほころびも恥ずかしや
(上歌)『さなきだに。あだなるに芭蕉の。女乃衣ハ薄色の。花染ならぬに袖の。ほころびも恥ずかしや』

小謡
(上歌)『見ぬ色の。深きや法の花心。深きや法の花心。染めずハ如何徒らに。その唐衣の錦にも衣の珠ハよも掛けじ。草の袂も露涙。移るも過ぐる年月ハ。廻り廻れど泡沫乃あはれ昔の秋もなしあはれ昔の秋もなしあはれ昔の秋もなし』

小謡
(上歌)『惜しまじな。月も假寝の露乃宿。月も假寝の露の宿。軒も垣ほも古寺の。愁ひハ。崖寺の古に破れ。神ハ山行乃。深きに傷ましむ月乃影もすさましや。誰か言ひし。蘭省の花乃時。錦帳の下とハ。廬山乃雨の夜草庵乃中ぞ思はるゝ』

小謡
(上歌)『燈火を背けて向ふ月の下。背けて向ふ月の下。共に憐む深き夜の。心を知るも法の人乃。教へのまゝなる心こそ。思ひの家ながら。火宅を出づる道なれや。されば柳ハ緑花ハくれなゐと知る事も。たヾそのまゝの色香の草木も。成仏乃国土ぞ成仏の国土なるべし』

◎(クセ)
『げに目の前に面白やな。春過ぎ夏たけ秋来る風の訪れは。庭の荻原まづそよぎそよかかる秋と知らすなり。身は古寺の軒の草。忍ぶとすれど古も。花は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。もろくも落つる露の身は。置き所なき虫の音の。蓬がもとの心の秋とてもなどか変わらん』

(役別) 前シテ 里女、 後シテ 芭蕉の精、 ワキ 山居の精 
(所要時間) 五十八分