【ふ】
106 藤戸(ふぢと)


我が子返させ給へやと
シテ『世に住めば。憂き節しげき川竹の』
地『杖柱とも頼みつる。海士乃この世を去りぬれば。今ハ何にか命乃露をかけてまし。在りがひもあらばこそとてもの憂き身なるものを。亡き子と同じ道になして賜ばせ給へと。人目も知らず伏し転び。我が子返させ給へやと。現なき有様を見るこそ哀れなりけれ』

(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 四番目
(季節) 三月
(稽古順) 九番習
(所) 備前国児島郡藤戸町
(物語・曲趣) 藤戸先陣の功で備前の児島を賜った佐々木盛綱入部して、「訴訟のある者は申し出よ」と触れさせると、賤しい身なりの老女が来て、罪なき子を盛綱に殺された恨みを泣きながらに訴えた。

盛綱は「先陣の功をあせったために、浅瀬を教えてくれた漁夫を心ならずも殺した」始終を物語り、その話を聞いてますます嘆き悲しむ老女をいろいろ慰めて帰らせた。

その後で、盛綱は殺された漁夫の追善供養をしている。

すると、その漁夫の亡霊が現れて「この恨みを晴らすために悪霊となって祟りをするつもりであったが、回向を受けて成仏得脱の身となることが出来た」と言って消え失せる。

題材としては、軍将の功名の犠牲となり、いわれなく命を奪われた一庶民の怨恨の執念が取り上げられている。

児島=岡山県児島郡をいう。むかしは島であったが、現在では陸地続きとなっている。
佐々木盛綱=佐々木源三郎秀義の三男。四郎高綱の兄。のち出家して西念と号した。
入部=領主が知行所へはじめて入ること。


刺し通し
独吟・仕舞
ワキ『如何なる恩をも』
シテ『賜ぶべきに』
地『思ひの外に一命を。召されし事ハ馬にて。海を渡すよりも。これぞ稀代の例なる。さるにても忘れがたや。あれなる。浮洲の岩乃上に我を連れて行く水の。氷乃如くなる刀を抜いて。胸の辺りを。刺し通し。刺し通さるれば肝魂も。消え着えと。そのまヽ海に。押し入れられて。千尋の底に。沈みしに』
シテ『折節引く汐に』
地『折節引く汐に。引かれて行く波の浮きぬ沈みぬ埋木の岩乃。狭間に流れかヽって。藤戸の水底の。悪霊の。水神となって恨みをなさんと思ひしに。思はざるに。御弔ひの。御法の御船に法を得て。即ち弘誓の船に浮かめば水馴棹。さし引きて行く程に。生死の海を渡りて願ひのまヽに。やすやすと。彼の岸に。到り到りて。彼の岸に到り到りて。成仏得脱の身となりぬ成仏の。身とぞなりにける』

小謡
(上歌)『住み果てぬ。この世ハ仮の宿なるを。この世ハ仮の宿なるを。親子とて何やらん。まぼろしに生まれ来て。別るれば悲しみの。思ひハ世々を引く。絆となって苦しみをせめてハ弔はせ給へや跡とむらはせ給へや』

(役別) 前シテ 漁師ノ母、 後シテ 漁師、 ワキ 佐々木盛綱、 ワキツレ 従者(二〜三人)
(所要時間) 四十五分