【ま】
111 松虫(まつむし)


立ちすがりたる市人の
(上歌)『今もその。友を偲びて松虫乃。友を偲びて松虫乃。音に誘われて市人乃。身を変へて亡き跡乃。亡霊此処に来りたり。恥ずかしやこれまでなり。立ちすがりたる市人乃。人影に隠れて阿倍野の方に。帰らん阿倍野の方に帰らん』

(作者) 能本作者註文・歌謡作者考・異本謳曲作者・二百十番謳曲目録は、いずれも世阿弥の作としているが、自家伝抄だけは金春禅作としている。
(曲柄) 四番目 (略二番目)
(季節) 九月
(稽古順) 一級
(所) 摂津国大阪市阿倍野
(物語・曲趣) 摂津国阿倍野の市で酒を売っている者の所に、いつも大勢でやって来て酒宴をして帰って行く男達がいた。

ある日、そのうちの一人が酒に興じながら「松虫の音に友を偲ぶ」と言ったので、それを聞いた市人がその男に訳を聞く。

すると男は「昔、二人の親しい友がこの阿倍野の松原を通った。そのとき、一人が松虫の音に心を惹かれて慕い、そのまま叢の中で死んでしまった。友は泣きながら死骸を埋めたが、今でも死んだ友を慕って、松虫の音に誘われて現れるのだ」と語った後、「自分がその亡霊である」ことを打ち明けて立ち去った。

その夜、酒売りの市人が回向をしていると、かの男の亡霊が現れて回向を喜び、友と酒宴をして楽しんだ昔の思い出を語るなどして、虫の音に興じて舞を舞った。そして、暁になって名残を惜しみながら姿を消すのである。

虫の音の情趣を亡き友を思う哀情に結びつけたもので、亡霊が昔の思い出を懐かしがるという構想にすることによって、物哀れな情趣の強化を図っている。

阿倍野=大阪市住吉区阿倍野町。
松虫の音に友を偲ぶ=古今集の序に「松虫の音に友を偲び」とある。


鐘も明方の
地『きりはたりちょう。つヾり刺せてふきりぎりすひぐらし。色々の色音の中に。別きて我が偲ぶ松虫の声。りんりんりんりんとして夜の声めいめいたり。すはや難波の。鐘も明方の。あさまにもなりぬべしさらばよ友人名残乃袖を。招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草茫々たる朝の原に。草茫々たる朝の原に。虫の音ばかりや。残るらん虫の音ばかりや。残るらん』

小謡
(上歌)『潮風も。吹くや岸野乃秋の草。吹くや岸野乃秋の草。松も響きて沖つ波。聞えて声々友誘ふこの市人乃数々に。我も行き人も行く。阿倍野の原ハ面白や。阿倍野の原は面白や。』

小謡
(上歌)『たとひ暮るゝとも。たとひ暮るゝとも。夜遊の友に馴衣乃。袂に受けたる月影の。移ろふ花の顔ばせ乃。盃に向へば。色もなほまさり草。千年の秋をも限らじや。松虫の音も尽きじ。壁生草の何時までも。変らぬ友こそハ買ひ得たる市の。宝なれ買ひ得たる市の宝なれ』

小謡
(上歌)『今もその。友を偲びて松虫乃。友を偲びて松虫乃。音に誘われて市人乃。身を変へて亡き跡乃。亡霊此処に来りたり。恥ずかしやこれまでなり。立ちすがりたる市人乃。人影に隠れて阿倍野の方に。帰らん阿倍野の方に帰らん』

小謡
(上歌)『古里に。住みしハ同じ難波人。住みしハ同じ難波人。蘆火焚く屋も市方館も。変らぬ契りを。忍草の忘れ得ぬ友ぞかしあら。懐かし乃心や』

(役別) 前シテ 男、 後シテ 男ノ亡霊、 ツレ(前) 男(三人)、 ワキ 市人
(所要時間) 四十分