【み】
113 通盛(みちもり)


なほなほ御経遊ばせ
地『げにありがたやこの経乃。面ぞ暗き浦風も。蘆火乃影を吹き立てゝ。聴聞するぞありがたき。憂きながら。心乃少し慰むハ。心乃少し慰むハ。月乃出汐の海士小舟。さも面白き浦の秋乃景色かな。所ハ夕波乃。鳴門の沖に雲つゞく。淡路の島や離れ得ぬ浮世乃業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき』

(作者) 井阿弥
(曲柄) 二番目 修羅物
(季節) 七月
(稽古順) 一級
(所) 阿波国板野郡鳴門
(物語・曲趣) 阿波の鳴門一夏を送る僧が、毎夜、磯辺で平家一門の跡を弔っている。ある夜、沖に出ていた漁翁と女が、お経を聴聞しようとして舟をこぎ寄せてきたので、僧は蘆火を焚かせて法華経を読誦した。

その後で、僧がこの浦で死んだ平家一門のことを尋ねると、漁翁は「小宰相の局の最期が殊に哀れであった」と答え、その入水の次第を語っていたが、突然、海に飛び入って消え失せた。

そこで、僧は方便品を読誦して通盛夫妻の回向をしていると、やがてこのふたりが波間から現れて来た。そして、通盛と局との惜別や生田の森での討ち死になどの様子を語った。

通盛も今までは修羅道の苦を受けていたが、法力によってここに成仏得脱の身となり得たことを喜ぶのである。

出陣の前に、武人が愛妻と別れを惜しんだという点に通盛の特異性があり、平家の公達らしいやさしさが感ぜられる。作者はそこを狙って、珍しい構想をしたものであろう。

阿波の鳴門=徳島県板野郡大毛島の孫崎と淡路島の戸崎との間の海峡。
一夏を送る=夏安居の行を積むことをいう。四月十六日から七月十五日までの間、篭居して精神修行をすること。
方便品=法華経の第二品の名称。
小宰相の局=三位中将通盛の妻。


通盛酌を取り
地『宗徒の一門差し遣はさる。通盛もその随一たりしが。忍んで我が陣に帰り。小宰相の局に向ひ。既に戦。明日に極まりぬ。傷はしや御身ハ通盛ならでこの中に。頼むべき人なし。我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。亡き跡弔ひて賜び給へ。名残惜しみのお盃。通盛酌を取り。さす盃の宵乃間も。仮寝なりし睦言ハ。例へば唐土の。項羽高祖乃攻めを受け。数行虞氏が涙もこれにハいかでまさるべき。燈火暗うして。月の光にさし向ひ。語り慰む処に』

小謡
(上歌)『憂きながら。心乃少し慰むハ。心乃少し慰むハ。月乃出汐の海士小舟。さも面白き浦の秋乃景色かな。所ハ夕波乃。鳴門の沖に雲つゞく。淡路の島や離れ得ぬ浮世乃業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき』

小謡
(上歌)『龍女変成と聞く時ハ。龍女変成と聞く時ハ。姥も頼もしや祖父ハ言ふに及ばず。願ひも三つの車乃蘆火ハ清く明すべしなほなほお経遊ばせほなほお経遊ばせ』


『沈むべき身の心にや涙のかねて浮かむらん 西はと問へば月の入る。西はと問へば月の入る。其方も見えず大方の。春の夜や霞むらん涙も共に曇るらん。乳母泣く泣く取りつきて。この時の物思ひ君一人に限らず思し召し止り給へと御衣の袖に取りつくを。振り切り海に入るを見て老人も同じ満潮の。底の水屑となりにけり 底の水屑になりにけり』(下歌 地)

(役別) 前シテ 漁翁、 後シテ 平通盛、 ツレ 小宰相局、 ワキ 僧、 ワキツレ 従僧
(所要時間) 四十分