【も】
117 求塚(もとめづか)


あらぬ事をな問はせ給ひそ
シテ『水の緑も春浅き。雪間乃若菜摘む野辺の』
シテ ツレ『少き草の原ならば。小野とハなどや知ろし召されぬ。あらぬ事をな問はせ給ひそ』

(作者) 二百十番謳目録には所見がなく、能本作者註文・歌謡作者考・異本謳曲作者・自家伝抄はいずれも世阿弥作としている。しかし、世阿弥の五音上に亡父曲として「されば人一日一夜を経るにだに」と記されており、それは現行曲とも一致していることなどから、観阿弥の作と観るのが穏当であろう。
(曲柄) 四番目
(季節) 一月
(稽古順) 重習初傳
(所) 摂津国神戸生田
(物語・曲趣) 春まだ浅き生田の小野に若菜を摘む女たちがいた。

そのなかに、ふたりの男に言い寄られたひとりの処女がその選択に苦しんで生田川に投身し、一方ふたりの男も互いに刺し違えて死んだ。そのため、女は地獄に落ちて苦患を受けるが、その間にもなお執心を捨てかねているさまが題材になっている。

前場に美しい菜摘みの光景を見せ、一転して後場で深刻な地獄の責めを描き出すことによって場面の変化を見せるとともに、対照によって双方の印象を強からしめる舞台効果を狙っている。また、文章と曲節とが相俟って曲趣の表現に成功している。

さらに、描写が精密でしかも一曲を通じて少しの緩みもなく、まさに数多い能の中での名曲である。

生田の小野に若菜を摘む=生田の小野は今の神戸市三宮町の東で、若菜の名所。正月初めの子の日に若菜を摘んで、内膳司から奉る儀があった。


足上頭下と落つる間は
シテ『而うして起き上れば』
地『而うして起き上れば。獄卒ハ笞をあてヽ。追つ立つれば漂ひ出でヽ。八大地獄乃数々苦しみを尽し御前にて。懺悔乃有様を見せ申さんまづ等活黒縄衆合叫喚大叫喚。炎熱極熱無間の底に。足上頭下と落つる間ハ三年三月の苦しみ果てヽ。少し苦患の隙かと思へば。鬼も去り。火焔も消えて。暗闇となりぬれば。今ハ火宅に帰らんと。ありつる住処ハ何処ぞと。暗さハ暗し。彼方を尋ね此方を。求塚何処やらんと求め求めたどり行けば。求め得たりや求塚の。草乃蔭野も露消えて草乃蔭野の露消え消えと。亡者の形ハ失せにけり亡者の形ハ失せにけり』

小謡
(上歌)『道なしとても踏み分けて。道なしとても踏み分けて。野沢の若菜今日摘まん。雪間を待つならば若菜も若しや老いもせん。嵐吹く森の木蔭小野の雪もなほ冴えて。春としも七草乃生田の若菜摘まうよ生田の若菜摘まうよ』

小謡
(上歌)『旅人の。道さまたげに摘むものハ。道さまたげに摘むものハ。生田乃。小野の若菜なりよしなや何を問ひ給ふ。沢辺なるひこりハ薄く残れども。水の深芹。かき分けて青緑色ながらいざや。摘まうよ色ながらいざや摘まうよ』

(役別) 前シテ 菜摘女、 後シテ 莵名日少女(うないおとめ)ノ霊、 ツレ(前) 菜摘女(二〜三人)、 ワキ 旅僧、 ワキツレ 従僧(二〜三人)
(所要時間) 六十分