【よ】
127 頼政(よりまさ)
あら傷はしや候 ワキ『傷はしやさしも文武に名を得し人なれども。跡ハ草露の道乃辺となつて。行人征馬の行方乃如し。あら傷はしや候』 |
(作者) 世阿弥元清
(曲柄) 二番目 修羅物
(季節) 五月
(稽古順) 二級
(所) 山城国久世郡宇治町平等院
(物語・曲趣) 諸国遊歴の僧が、京都から奈良へ赴く途中に宇治の里に立ち寄った。
その里であたりの景色を眺めていると、ひとりの老人が来たので僧は付近の名所旧跡を訊ねる。
老人は宇治山その他の名所旧跡を教えた後、僧を平等院に連れて行き、「源頼政自害の跡である扇の芝」について語る。そして老人は「今日がその命日であり、自分が頼政の幽霊である」ことを告げて消えた。
旅僧は奇特に思って読経をして弔い、そこで仮寝をしていると、やがて甲冑姿の頼政が現れる。
頼政は、「治承の夏、高倉宮におつとめして平家の討伐を謀ったが、この宇治川の要害を破られて如何ともし難く、一首の辞世を遺して自害したのだ」と、当時の事を物語り、回向を乞い、扇の芝の草陰に消え失せた。
宇治川の合戦と頼政の最期とを頼政の幽霊に物語らせるのが本曲の骨子である。
この曲は「実盛」にくらべて品位も高く詩味も多いのであるが、根本にあるのは無念の思いを忘れかねる執心の表現であると解すべきである。
平等院=宇治橋の西南岸にある寺。永承七年、関白藤原頼通がこれを寺と改めた。
下は川波 シテ『寺と宇治との間にて』 地『関路の駒乃隙もなかう。宮ハ六度まで御落馬にて煩はせ給ひけり。これハ前の夜御寝るならざる故ならざる故なりとて。平等院にして。しばらく御座を構へつヽ宇治橋の中乃間引き離し。下ハ川波。上に立つも。共に白旗を靡かして寄する敵を待ち居たり』 |
■小謡 (上歌)シテ『名にも似ず。月こそ出づれ朝日山』 地『月こそ出づれ朝日山。矢吹の瀬に影見えて。雪さし下す柴小舟。山も川も。おぼろおぼろとして是彼を分かぬ景色かな。げにや名にし負ふ。都に近き宇治の里聞きしに勝る名所かな聞きしに勝る名所かな』 |