伊豆文学散歩・総集編




(2003/6/24:伊豆・湯ケ野)

  中伊豆にゆかりの文人たちの足跡をたどりながら天城路近辺を散策する「教養講座・伊豆文学散歩」(Aシティーニュース社主催)に参加した。
  ご案内役は中伊豆文学に造詣の深い梅原實雄先生(昭和の森・伊豆近代文学博物館指導員)。機知に富んだ解説を聞きながら現地を歩く都合5回のシリーズは、情緒溢れる「文芸の旅」でもあった(03年2月〜6月)。


天城峠・旧天城トンネル
  川端康成の「伊豆の踊子」の舞台となった天城トンネル。ひんやりと冷気を感じるトンネルの中は小さな電灯がついてはいるものの、ほの暗い。特別な計らいとして、トンネル入口で電灯のスウィッチを消し用意された提灯を片手にそろそろと歩く。進むにつれて、天井から水滴が滴り落ちてくる。

  トンネルを抜けると、また新鮮な風景が現れる。物語の展開を脳裡に浮かべながら、つづら折りの天城路をさらに歩を進める。物語が展開された大正15年当時の状況を彷彿とさせる風景である。

旧天城トンネル・・・国指定重要文化財。石造りのトンネルの完成は1905年(明治38年)で、全長446メートル。1970年(昭和45年)に新天城トンネルが開通するまでは峠を越えるための主要道路であった。

  『道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。・・・重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。・・・ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。突っ立っている私を見た踊子がすぐに・・・』(川端康成「伊豆の踊子」)

  『暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた』(川端康成「伊豆の踊子」)

  『洪作が立っている入口とは反対側の向こうには、洪作のところからは半月状なして見え、その半月の中に小さい他国の風景が嵌めこまれてあった』
(井上靖「しろばんば」)


  「伊豆の踊子文学碑」と「川端康成レリーフ」は苔むす巨大なふたつの岩で結ばれている。物語のスタート地点にふさわしいということか。   昭和の森会館方面から河津方面に向かってつづら折りになっている旧道を進む。「文学碑」は写真右手の斜面に建っている。旧天城トンネルの直ぐ手前だ。   一つ目のカーブを曲がると、目の前に旧天城トンネルが現れる。暗いトンネルのはるか先には出口のかすかな光明が・・・。川端文学の一端を見るようだ。


  暗いヒンヤリするトンネルを抜け出す。振り返ると、入り口の明かりがかすかに。   松本清張「天城越え」の氷室小屋は寒天橋の近くにある。砂利路を更に進む。   北側斜面には至るところに苔がむしている。先生の野草の説明にも熱が入る。



天城湯ヶ島
  井上靖の自伝的小説「しろばんば」の舞台である天城・湯ヶ島近辺の散策である。3歳の時から実家の祖母(おぬい婆さん)に預けられた洪作少年(主人公)が、13歳になるまで「一風変わった土蔵の生活」をおぬい婆さんと一緒に過ごした舞台である。

  『その頃と言っても大正四、五年のことで、いまから四十数年前のことだが、夕方になると決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと呼びながら家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたてこみ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ』(井上靖「しろばんば」の冒頭部分、井上靖直筆の書体による「井上靖詩碑」碑文)

  『井上靖は文壇の巨匠と仰がれながらも、一方では満天の星のもとただ一人宇宙と対座することに至上の喜びを見出す、魂の永遠のさすらいの人だった。おぬい婆さんと洪作少年がこの地で営んでいた一風変わった生活が如何に重要な意味を持っていたかと思い見ずにいられない』(大岡信「しろばんばの碑に題す」、井上靖詩碑「しろばんば」の背面)

  『地球上で一番清らかな広場。北に向かって整列すると遠くに富士が見える。回れ右すると天城が見える。富士は父、天城は母。父と母が見ている校庭でボールを投げる。誰よりも高く、美しく、真っ直ぐに、天にまで届けとボールを投げる(井上靖記念碑、湯ヶ島小学校校庭)

  『私は幼少年時代を郷里伊豆の山村で過ごした。いまは取り壊してしまったが、母屋の背戸に小さい土蔵があって、その土蔵の二階に私は祖母と二人で住んでいた。北側と南側に鉄格子のはまった小さい窓があった。全くの明りとりの窓で、そこからだけしか光線が入って来なかったので、土蔵の内部はいつも暗くひんやりしていた』
(井上靖「土蔵の窓」)


  井上靖邸跡と詩碑。洪作少年が富士山を眺めながらおぬい婆さんと暮らした土蔵があった場所。今でも、富士の霊峰をはっきりと眺めることが出来る。   湯ヶ島小学校の校庭隅に建てられている井上靖記念碑の前で熱弁を振るわれる案内役の梅原先生。同氏は、かつてこの学校で校長先生を勤められた。   正門側の広場には、洪作少年とおぬい婆さんの像が何事かを語りかけている。少年を育んだ情緒的な雰囲気が伝わってくるような小学校である。



湯ヶ島の湯道
  天城温泉会館を出発したあと、 「宿の通り」(現、国道414号)を南下して「湯道(ゆみち)」の方へ歩を進める。地元の人たちが共同湯(現、河鹿の湯)に通うための道路であったという昔ながらの山道である。

  かつて湯ヶ島を訪れた多くの文人たちもこよなく愛したという湯道。洪作少年はさき子おばさんと一緒に幾度もこの道を通ったのであろう。趣のある田舎道である。「しろばんば」の洪作少年になりきっての歩きである。
  『さき子が村へ帰ってから、洪作は毎日のようにさき子と一緒に渓谷(たにあい)に沸き出している西平の湯へ出かけて行った。さき子が共同湯へ出掛ける時刻になると、みつが洪作を呼びに来た。洪作は女二人と湯に行くのが何となく厭だったので、近所の友達を誘った。いつも雑貨屋の幸夫とか・・・』(井上靖「しろばんば」)




文人たちの定宿
  伊豆・湯ヶ島にゆかりの作家たちの執筆生活は、どのような環境にあったのであろうか。井上靖、川端康成、梶井基次郎たちが定宿としていた旅館を訪ねることになった。
  井上靖ゆかりの「白壁荘」。狩野川のせせらぎを聞きながらの執筆生活であったろう。   昭和23年1月、短編小説「猟銃」完成。作家活動としては晩生の40歳、新聞記者時代であった。 文人・井上靖の直筆書面や写真を示しながら説明してくれた白壁荘の女将さん。

  川端康成が長逗留していた「湯本館」の一室“川端さん”は、当時そのままの状態で残されている。ここで書き上げた「伊豆の踊子」ほかの短編集は、昭和2年3月、川端康成28歳の時、金星堂から刊行された。案内役の梅原先生がその初版本を宿の女将さんから特別に拝借して、我々に披露してくれた。

  『・・・玄関から上がった階段の左に四室あるのだが、五号室だけは右にあって、離れているものだから、長逗留の私はそこにいた。一号室と二号室との境も襖、廊下との隔ても紙障子という風で、宿そのものが古い小さい湯本館なのだが、私はそこを理想郷のように言っては多くの友人知人を呼んだのであった。若気の幸福であったろうか.・・・』(川端康成「伊豆の思ひ出」)

 『うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花』
  『鉄瓶のふちに枕しねむたげに徳利かたむくいざわれも寝む』
(若山牧水「山ざくら」「湯ヶ島雑詠」、湯本館にて)


  数多くの文人とのつながりが深い「落合楼」。本館ほかは国の有形文化財に指定されている(左)。

  落合楼から猫越川(ねっこがわ)沿いに上流へ進むと、大きな椎の木が現れる。
梶井基次郎をして「その木の闇は巨大」と言わしめた大木は、今なお生い茂っていた(右)。

  『・・・右は山の崖である。左は谷間の底を川が轟々と流れ、瀬の色が闇の中に白い。大きな椎の木が立ち、その木の闇は巨大である。黒々とした杉林がパノラマのように行く手を深い闇で包んでしまう。・・・』(梶井基次郎「闇の絵巻」)


  梶井基次郎は明治34年2月に生まれ、昭和7年3月32歳の若さで肺結核のため永眠した。自作品を同人雑誌に発表しただけの状態でこの世を去ることとなり、いわば無名作家といわれる部類であった。しかし彼の作風からして、『かつて志賀直哉が占めていたような位置をいま占めている文学者がいるとすれば、それは川端康成でも石川淳氏でも小林秀雄氏でもない。まして、夏目漱石でも森鴎外でも芥川龍之介でもない。それは梶井基次郎である』(丸谷才一)という稀有な作家であったようだ。

  血痰、喀血が続いて病状が悪化した梶井青年は、大正15年12月、東京帝国大学文学部英文学科の卒業論文執筆を断念し、湯ヶ島温泉に川端康成を訪ねる気持ちもあって湯川屋で転地療養。昭和5年、臥床中に名作「交尾」を脱稿した。


  かくしゃくとした「湯川屋」の女将さんは当年85歳。重い病魔・肺結核と戦っていた梶井青年を語る思い出話は尽きない。   梶井が湯川屋から川端康成宛てに出した封書による「山の春の便り」について、川端は「梶井君からもらった最初の手紙。美しい手紙」と感激した。後に、この文章は「梶井基次郎の碑」に刻されることになった。すこぶる達筆な書体である。


  『・・・川端のいた湯本館は西平にあった。自分のいる湯川屋は瀬古の滝にある。敬愛する先輩だが、自分の作品にまだ何の反応も示さない。あの人はあの人、おれはおれだ。そんな深層心理があっても、おかしくない。・・・』(梶井基次郎「筧の話」)

  『・・・梶井君は大晦日の日から湯ヶ島に来ている。「伊豆の踊子」の校正ではずいぶん厄介を掛けた。・・・梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐かしく深い人柄を持っている。植物や動物の頓狂な話を私はよく同君と取り交わした。・・・』
  『・・・梶井君が湯本館へ私を訪ねてくれたのは、昭和元年の大晦日であった。彼はその前の日あたり、湯ヶ島へ療養に来たのであった。私の言葉に従って、落合楼から世古の滝の湯川屋へ移って行った。・・・』
  『・・・四月三十日づけ私あて梶井君の書簡は、私が梶井君からもらった最初の手紙である。美しい手紙と思う。四月五日に私が去ってから後の山の春の便りである・・・』
(川端康成「伊豆の思ひ出」)

  『拝啓・・・山の便りお知らせいたします 桜は八重がまだ咲き残ってゐます つつぢが火がついたやうに咲いて来ました 石楠花は淨蓮の滝の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ蕾の紅もさしていない位です・・・げんげん畑は掘りかへされて苗代田になりました もう燕が来てその上を飛んでゐます・・・』(梶井基次郎「川端康成宛書簡・山の春の便り」、湯ヶ島世古の滝・湯川屋所蔵)



河津七滝・湯ケ野
  川端康成「伊豆の踊子」の舞台のひとつとなった湯ケ野を訪ね、河津川沿いの湯坂遊歩道を歩く。

  天城の山々に囲まれた山あいの温泉場で、ひなびた佇まいを見せる。当時の面影を今なお充分に残すものである。渓流と深い緑の木々が織りなす自然美がまたよろしい。


  湯ケ野橋を渡ったところに福田屋(現、福田家)がある。「伊豆の踊子」の主人公(私)が泊まった宿で、玄関には岩に腰掛ける踊子の像が立っている。下を流れる川のせせらぎの音も心地よい。『川向こうの湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮かんでいた』という共同湯は目と鼻の先にある。すぐ隣りには「伊豆の踊子文学碑」(右)が立っている。   文学碑を前にして、舞台となった背景などについて説明される梅原先生。碑文には、主人公(私)が踊子の旅芸人達を追って湯ヶ島から天城を越え湯ケ野へたどりつく部分の文章が刻されている。


  『・・・彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮かんでいた。ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突飛に川岸へ飛び降りそうな恰好で立ち、両手をいっぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。・・・』(「福田屋」での状況描写、川端康成「伊豆の踊子」抜粋)

  『湯ケ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下里だった。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。私と男とは絶えず話し続けて、すっかり親しくなった。荻乗や梨本なぞの小さい村里を過ぎて、湯ケ野の藁屋根が麓に見えるやうになった頃、私は下田まで一緒に旅をしたいと思い切って言った。彼は大変喜んだ』(「伊豆の踊子文学碑」碑文、川端康成「伊豆の踊子」抜粋)



伊豆近代文学博物館
  広大な敷地の「昭和の森」の中に建つ「昭和の森会館」。その館内にある「伊豆近代文学博物館」では天城、伊豆にゆかりの文学者約120名の貴重な資料が展示されている。また併設されている「森林博物館」では天城国有林の植物や動物の変化を表したジオラマなども見学することができる。
 『 「伊豆の踊子」は、前に、田中絹代、美空ひばり、鰐淵晴子の踊子、それにこんどの吉永小百合で、四度の映画化である。四人の女優さんはみな、踊子の役をよろこんでくれた。 この写真は撮影地の伊豆の山で、風の強い日だったが、古風な踊子姿の吉永小百合をみていると、私は懐かしい親しみを感じた。吉永の好ましい人柄にもよる。』(「伊豆近代文学博物館」に陳列されている川端康成直筆の原稿と映画「伊豆の踊子」撮影現場でのロケ風景写真)



「伊豆近代文学博物館」の入口 天城、伊豆にゆかりの文芸資料の数々 川端康成「伊豆の踊子」の生原稿


井上靖旧邸(左)
  明治23年に建築された湯ヶ島の旧家をそのままの状態でこの地に移築(昭和58年3月)したもの。氏が5〜13歳まで過ごした思い出深い家であろう。なお、「土蔵」は文学博物館に模型として保存されている。

昭和の森会館(右)
・・・伊豆文学に造詣の深い梅原先生とお別れの時間がやってきた。事前学習会を含め、都合5回にわたってのお付き合いであった。手を振って見送っていただいた先生にお礼を申し上げたい。