二宮尊徳(金次郎)の生涯
二宮尊徳の里・史跡めぐり

二宮尊徳の遺訓である「積小為大」「分度」「推譲」…。現代の世の中ではともすれば馴染の薄い言葉になりつつあるが、これらの表現はどのような背景、人生観のもとに生まれたのであろうか。

金次郎の生誕の地である櫻井村(現小田原市栢山)に建設されている「尊徳記念館」を訪ねて彼の生き様の一端を垣間見てみることとし、あわせて、付近に設えている史跡めぐり・散策コースを歩いてみた(2005/6/14)。

(参考資料:「栢山の二宮尊徳史跡めぐり」「尊徳記念館」「報徳二宮神社」リーフレット、現地案内板ほか)


二宮金次郎像(報徳二宮神社)

薪を背負って歩きながら本を読む金次郎の姿
報徳二宮神社にあるこのブロンズ像の制作者は3代目鋳匠の慶寺丹長(けいじたんちょう)で、神戸の中村直吉氏が昭和3年(1928年)に昭和天皇の即位御大礼記念として寄進されたもの。

これと同じ像は全国の小学校などに向けて約1000体ほど制作されたが、戦時中に全て供出する羽目となり、現在残っているのはこの1体だけである。

なお、この像は当時のメートル法普及の意図を反映して、ちょうど1メートルの高さに制作されている。

◆◆薪を背負うスタイルが初めて登場したのは、明治24年(1891年)に出版された幸田露伴の「二宮尊徳翁」という本の挿し絵である。




二宮尊徳の生家
この「かや葺き寄木棟造」建物は昭和35年(1960年)に当時の姿のままで復元されたもので、「神奈川県指定重要文化財」となっている。
二宮尊徳翁の像(実物大)
生家を囲む石垣は、明治42年(1909年)、御木本幸吉氏(真珠王)によって寄贈されたもの。 身長180cm、体重94kg、わらじの大きさ28cmの大男だった。


二宮尊徳翁の生涯
『独特な思想と実践主義によって人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界にも誇れる偉人』とされ、内村鑑三は名著「代表的日本人」のなかで、19世紀末の欧米諸国に対し、「苦難の時代を救った偉人」と紹介している。


尊徳翁(公文書では金次郎、自筆は金治郎)は、天明7年(1787年)、相模国栢山村(現在の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれた。が、再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、両親は亡くなって親戚の家に預けられてしまった。

金次郎は朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて荒地を開墾し収穫を上げてお金を貯め、24歳になるまでに一家を再興するまでに至った。

大人になった尊徳翁は、小田原藩家老・服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真公の依頼により分家宇津家の桜町領を復興。さらに、北関東から東北にかけての各藩の農村に対して行なった総合的復興事業(報徳仕法)によって疲弊しきっていた農村を蘇らせ、そうした村の数は600以上にものぼった。

安政3年(1856年)、日光地方の復興事業中に今市の報復役所で69歳の生涯を閉じた。遺骨は今市の星顕山如来寺に葬られ、遺歯、遺髪は栢山近くの善栄寺に埋葬された。


"積小為大"尊徳の行いの基本となった考え方
毎晩勉強に勤しんでいた金次郎は、読書をするために必要な油代を稼ぐために、さまざまな努力を重ねた。

わずか一握りの菜種を荒地に植えて7〜8升の収穫を得ることになったこと、捨て苗を荒地で育て秋には1俵の籾を収穫したことなど、自然の恵みと人の力の素晴らしさを認識することとなった。

このように、小さな努力の積み重ねが如何に大切(積小為大)であるかということを学んだことが、後における彼の行いや考え方のベースになったとされている。
少年勉学の像
二宮総本家の墓地がある善栄寺(栢山)に建立されている。

金次郎が幼い頃に体験して得た教訓「積小為大」の考え方をイメージして、鋳金家4代目の慶寺丹長氏が制作したもの。
二宮総本家の墓地
金次郎の生家から北東方向に500mほど歩いた善栄寺(曹洞宗)内にある。

尊徳翁の墓には遺髪と遺歯が埋葬されている。

二宮金次郎像
報徳二宮神社 同左 早川小学校


二宮尊徳翁の考え方
積小為大…大は小を積んで大となる。小さいことを積み重ねることによってこそ大が生じるのであって、小さな努力の積み重ねが大事であるということ。

分度・・・天分を測度して自己の実力を知り、それに応じて生活の限度を定めることで、合理的な計画経済を意味している。

推譲・・・勤労して収益を増やし、余剰を将来のため、子孫のため、世のために譲り合うことが肝要であるとしている。

信用組合・・・信用組合の発祥地はドイツといわれているが、それより40年以上も前に同じような組織である"五条講"を制度化して、実践した。
*五条講・・・藩の使用人や武士たちの生活を助けるために、彼らが必要とする資金の貸し借りができるような制度



貧富訓・・・貧 遊楽分外に進み、勤労分内に退けば、
         則ち貧賎、其の中に在り。
       冨 遊楽分内に退き、勤労分外に進めば、
          則ち冨貴、其の中に在り。