中伊豆・修善寺界隈を歩く
〜温泉と歴史探訪と自然とのふれあい〜

 修善寺温泉の町並みは三方を山に囲まれしっとりとした温泉情緒を漂わせている。また、この地は源氏興亡の舞台となったこともあって 歴史を感じさせる見所も多い。

 湯けむり立つ桂川沿いに咲く春の花を愛でながら、歩きに歩く。源氏興亡の哀史を秘めた舞台の一端を垣間見る機会でもあった(2005/3/20)。
                      (参考文献:伊豆市観光協会リーフレットほか)

竹林の小径


伊豆高原「桜並木通り」
(美景が減殺される"ジャマな電線"!)
東伊豆から中伊豆へ「天城の山越え」
(天城高原IC)
満開になった桜、満喫!
(修善寺・ホテルT)


日枝神社
修禅寺に隣接し、昔は修禅寺の鎮守様であった。源範頼が幽閉されて住んでいたという信功院跡がある。

境内には、夫婦杉の大木や伊豆では珍しい鹿子の木、県の文化財に指定されている一位樫がある。
日枝神社の境内 夫婦杉


修禅寺
曹洞宗。大同2(807)年に弘法大師が開基した修善寺温泉発祥の名刹。

鎌倉時代に源氏一族が骨肉の争いを演じた悲劇の舞台である。

宝物館には、北条政子が実子源頼家の冥福を祈って寄進した宋版放光般若経などがある。


(平成19年に開創1200年を迎えるに当たり、現在、本堂の大修理中)
修禅寺の境内 修禅寺の山門


独鈷(とっこ)の湯
桂川畔に湧き出た温泉で、修善寺温泉発祥の地。

伊豆最古の温泉といわれ、修善寺温泉のシンボルとなっている。
 弘法大師と温泉治療にまつわる伝説
平安初期、諸国行脚中の弘法大師がこの地を訪れた際に、川原で病気の父の身体を洗う少年を見つけた。その孝心に打たれた弘法大師は手にしていた独鈷(どっこ、仏具)で川中の岩を砕き、霊泉を湧出させた。これによって父の病が治り、温泉治療を伝授したと伝わっている。


竹林の小径
桂川に沿って、「かつら橋」と「かえで橋」の間に設えられた小径。径の途中に設えられている茶処は散策する人たちを楽しませてくれる。かつら橋を渡る人力車風景(右)も風情ある絵である。


赤蛙公園
作家島木健作の短編「赤蛙」の取材地となったところで、現在、それにちなんで小さな公園が造られている。

夏には蛍が飛び交い、「ほたるの夕べ」が開かれるとか。


この公園から源範頼の墓までの遊歩道「風の径」も風情あって、お奨めの価値ありだ。
芽を吹き出したヤナギの新緑 さくら、もも、ゆきやなぎ…


源範頼の墓 源頼家の墓 指月殿
源範頼の墓
兄頼朝の誤解により信功院に幽閉された範頼は、建久5(1194)年、梶原景時500騎の不意打ちに会い、防戦の末に信功院で自刃した。
源頼家の墓
正治元(1199)年、父頼朝の死によって源氏二代将軍となったが、4年後には北条氏の策略により当地に幽閉され、翌年入浴中に暗殺された。23歳の若さであった。
丈六釈迦如来像
指月殿
伊豆最古の木造建築物。23歳という若さで非業の死を遂げた源頼家の冥福を祈って、母の北条政子が建てたお堂。「一切経堂」ともいわれる。

 堂内には、右手にハスの花を持った珍しい形の丈六釈迦如来像が安置されている(通常の釈迦如来像は手に何物も持たない)。
 修禅寺に残る源氏3代の哀史
2代将軍源頼家が修禅寺で若い生涯を終えた後、弟の3代将軍実朝も、さらに息子の公暁までもが横死し、源氏はついに滅亡にいたった。すべては、正治元(1199)年の父頼朝の死をきっかけにして天下席巻の野望を実行に移した母政子の生家、北条氏の策略によるものであった。

流血による政権交代が当たり前だった戦乱の世にあったとはいえ、母の策謀で命を奪われた頼家、そして実子を死に追いやった母政子。

彼らの哀しい運命に思いを馳せながらの修善寺散策であった。