5月



(2003/5/18 : 睡蓮・平安神宮神苑)


5月27日(火)
伊豆の天城湯ヶ島・文学散歩(第3回)

○ 第3回「伊豆文学散歩」は先月に続いて伊豆・湯ヶ島が舞台である。同じく、天城温泉会館からのスタート。「しろばんば」の洪作少年(井上靖)になりきっての歩き始めである。

○ 「宿の通り」(現、国道414号)を少し南下した後、「湯道(ゆみち)」の方へ歩を進める。地元の人たちが共同湯(現、河鹿の湯)に通うための道路であったという昔ながらの山道である。洪作少年はさき子おばさんと一緒に幾度もこの道を通ったのであろう。趣のある田舎道である。


○ 伊豆・湯ヶ島にゆかりの作家たちの執筆生活は、どのような環境にあったのであろうか。井上靖、川端康成、梶井基次郎たちが定宿としていた旅館を訪ねることになった。



井上靖ゆかりの「白壁荘」。狩野川のせせらぎを聞きながらの執筆生活であったろう。 昭和23年1月、短編小説「猟銃」完成。作家活動としては晩生の40歳、新聞記者時代であった。 文人・井上靖の直筆書面や写真を示しながら説明してくれた白壁荘の女将さん。

川端康成が長逗留していた「湯本館」の一室「川端さん」は、当時そのままの状態で残されている。ここで書き上げた「伊豆の踊り子」ほかの短編集は、昭和2年3月(28歳)、金星堂から刊行された。案内役の梅原先生がその初版本を宿の女将さんから特別に拝借して、我々に披露し説明していただいた。

『・・・玄関から上がった階段の左に四室あるのだが、五号室だけは右にあって、離れているものだから、長逗留の私はそこにいた。一号室と二号室との境も襖、廊下との隔ても紙障子という風で、宿そのものが古い小さい湯本館なのだが、私はそこを理想郷のように言っては多くの友人知人を呼んだのであった。若気の幸福であったろうか.・・・』(川端康成「伊豆の思ひ出」)

『うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花』
『鉄瓶のふちに枕しねむたげに徳利かたむくいざわれも寝む』
(若山牧水「山ざくら」「湯ヶ島雑詠」、湯本館にて)

数多くの文人とのつながりが深い「落合楼」。本館ほかは国の有形文化財に指定されている(左)。

落合楼から猫越川(ねっこがわ)沿いに上流へ進むと、大きな椎の木が現れる。
梶井基次郎をして「その木の闇は巨大」と言わしめた大木は、今なお生い茂っていた(右)。

『・・・右は山の崖である。左は谷間の底を川が轟々と流れ、瀬の色が闇の中に白い。大きな椎の木が立ち、その木の闇は巨大である。黒々とした杉林がパノラマのように行く手を深い闇で包んでしまう。・・・』(梶井基次郎「闇の絵巻」)

梶井基次郎は明治34年2月に生まれ、昭和7年3月32歳の若さでで肺結核のため永眠した。彼の作品は同人雑誌に発表しただけの、いわば無名作家といってもいい状態のまま死んでしまった。にもかかわらず、『かつて志賀直哉が占めていたような位置を、いま占めている文学者がいるとすれば、それは川端康成でも石川淳氏でも小林秀雄氏でもない。まして、夏目漱石でも森鴎外でも芥川龍之介でもない。それは梶井基次郎である』(丸谷才一)という稀有な人物であったようだ。

血痰、喀血が続いて病状が悪化した梶井青年は、大正15年12月、東京帝国大学文学部英文学科の卒業論文執筆を断念し、湯ヶ島温泉に川端康成を訪ねる気持ちもあって湯川屋で転地療養。昭和5年、臥床中に名作「交尾」を脱稿した。

かくしゃくとした「湯川屋」の女将さんは当年85歳。重い病魔・肺結核と戦っていた梶井青年を語る思い出話は尽きない。 梶井が湯川屋から川端康成宛てに出した封書による「山の春の便り」について、川端は「梶井君からもらった最初の手紙。美しい手紙」と感激した。後に、この文章は「梶井基次郎の碑」に刻されることになった。すこぶる達筆な書体である。

『・・・川端のいた湯本館は西平にあった。自分のいる湯川屋は瀬古の滝にある。敬愛する先輩だが、自分の作品にまだ何の反応も示さない.。あの人はあの人、おれはおれだ。そんな深層心理があっても、おかしくない。・・・』(梶井基次郎「筧の話」)

『・・・梶井君は大晦日の日から湯ヶ島に来ている。「伊豆の踊り子」の校正ではずいぶん厄介を掛けた。・・・梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐かしく深い人柄を持っている。植物や動物の頓狂な話を私はよく同君と取り交わした。・・・』
『梶井君が湯本館へ私を訪ねてくれたのは、昭和元年の大晦日であった。彼はその前の日あたり、湯ヶ島へ療養に来たのであった。私の言葉に従って、落合楼から世古の滝の湯川屋へ移って行った。・・・』
(川端康成「伊豆の思ひ出」)

『拝啓・・・山の便りお知らせいたします 桜は八重がまだ咲き残ってゐます つつぢが火がついたやうに咲いて来ました 石楠花は淨蓮の滝の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ蕾の紅もさしていない位です・・・げんげん畑は掘りかへされて苗代田になりました もう燕が来てその上を飛んでゐます・・・』(伊豆湯ヶ島世古瀧 湯川屋 梶井基次郎 : 川端康成宛書簡)

番外・ハナショウブ(伊豆河津・かわづ花菖蒲園)


5月18日(日)〜19日(月)
京都・てくてく歩き

○ 18日朝、大阪からJR電車に乗って京都到着10時過ぎ。

○ フル2日間にわたる京都フリー散策の始まり。
気の向くままに歩き、必要に応じて電車・バスを乗り継いで目的地へ向かい、休息し、そしてまた歩く。

○ 19日夕方、京自慢のお豆腐料理を堪能した後、東京行き新幹線に飛び乗る。
11時過ぎ帰宅。充実感のある、満喫した京の旅であった(詳しくは、別ページ「京都・てくてく歩き」)

平安神宮・二層楼碧本葺の応天門(神門)。平安京創始者の桓武天皇と最後の孝明天皇を祀る。国名勝の神苑では、折りしも睡蓮と河骨が見頃を迎えていた。 真如堂(真正極楽寺)の境内。薄緑の若葉が萌えるモミジの大樹は強い日差しに映えて眩しかった。本尊に供えるお茶湯は「末期の水」として有名。 龍安寺の石庭。庭一面の白砂に配置されている大小15個の石全部を一方向から確認するには、「空の世界」に没入しないとやはり見えないようだ!


5月17日(土)
新幹線のぞみ号にて大阪へ

○ 5年ぶりとなった大阪入りは新幹線を利用することにした。
新型車両「のぞみ号」のシートは、足が存分に伸ばせてユッタリした気分になれるところがよろしい。国際線の空の旅、ファーストクラスを思い出す!

○ 昼前に到着してブラブラ歩き。昼食には無性に食べたくなった「お好み焼き」を道頓堀にて。
暑い日差しの中、大阪城のクスノキの白い花がまぶしかった。 

食道楽の本場・道頓堀の繁華街 新緑の木々に覆われた大阪城 淡緑色の葉の根もとに咲くクスノキの花

高校同期生の集い・大阪にて
○ 2年前の東京大会に続いての大阪大会は、総数64名の参加を得て成功裡に終わった。

○ 卒業以来の顔合わせになった旧友多数。
話し込むほどに、若かりし青春時代が蘇ってくる。尽きない語らいは夜更けまでに及んだ。

5月14日(水)
沖縄地方が梅雨入り

○ 奄美地方が昨日、全国で一番初めに梅雨入りしたのに続いて、今日は沖縄地方でも。
いよいよ鬱陶しい雨の季節がやって来るか。

5月13日(火)
ハーブの色々

○ 芳香を撒き散らすハーブ。種類が多いのも特徴だ。県立相模原公園にて。

5月10日(土)
クレマチス、花盛り

○ 市立相模原麻溝公園で、この時期の花の名物・クレマチスが開花し始めて10日余り。
今を盛りと咲き誇っているクレマチスは、清楚な感じを醸し出す花である。

(5月中旬のフロント・ページ)
○ 木々の葉は色合いを増して濃緑一色になってきました。吹く風も心地よいものです。
○ 野に咲く花、路傍に咲く花、木に咲く花、そして公園に咲く花の数々・・・。巡り巡ってきた季節に対応して、花々は次から次へと私達を楽しませてくれます
(5月13日)。

5月6日(火)
立夏・夏の始め

○ 二十四節気の一、立夏。
「太陽の黄経が45度の時」とある。強い日差し、いよいよ夏の始まりである。

5月4日(日)
「日本一・相模の大凧」

○ 相模原の伝統行事のひとつである「大凧まつり」が相模川河川敷の上磯部会場ほかで行われた。

○ 「かながわの民俗芸能五十選」や「かながわのまつり五十選」にも選定されている伝統行事のひとつだ。
昨年の「滞空時間6時間の新記録」に負けないような雄大な光景が期待されたが、残念ながら凧揚げに必要な風吹かず。

○ 今年の題字どおりの「躍進」が大空に舞うことはできなかった。残念。明日5日は浮力のための風が吹くことを期待しよう。

光明学園相模原高校・和太鼓部の演奏
○ 凧揚がらず、会場の雰囲気を盛り上げたのが若さあふれる高校生による『創作太鼓』演奏であった。

○ 同校の和太鼓部は昨年の「神奈川県高校和太鼓選手権」で最優秀賞を受賞し全国大会にコマを進めたとのことで、昨年だけでも年間40回もの演奏活動を行うなど各方面で幅広く演奏活動を行っているよし。

○ 日本の伝統楽器である和太鼓を使って、創作的なリズムを自由に表現する現代的な太鼓。新鮮でエネルギッシュな演奏に、拍手喝采!



(5月上旬のフロント・ページ)
○ 萌え出る若葉の瑞々しさ、燃えるような新緑の鮮やかさ。淡いミドリ、深いミドリ・・・。他に例えようの無い美しさです。
○ 青葉の香りを吹き送る初夏の風、薫風。鯉のぼりが芳しい風に乗って、気持ち良さそうに泳ぎます。これまた、初夏の爽やかな風景です(4月28日)。